とある結論への道。その4

思うに、子供といっしょになって遊べない親は、子供を見ている顔がとてもつまらなそうにみえる。
子供は子供で遊んでいて、それはそれで楽しそうなのかもしれないが。
俺が見たことのある親のなかでは、携帯電話とにらめっこする顔が、笑っていたためしがない。
子供の世界に入れない親は、まるで自分が別の世界にいるかのように振舞う。
その「世界」にいることが、何かのステータスになっているのかどうか解らないけれど。
自分の世界を崩そうとしない。
「子供は子供の世界がある」なんて言葉を盾に取りたいのかどうかは知らないが。
そのことを指摘すると、やたらに怒る。
それがたとえ、子供の前であっても。
それに引き換え、子供と一緒にな手遊べる親は、とても楽しそうな顔をして笑っているように思う。
自分自身が、子供と遊んでいるときだって、そうだったのだから。
子供と一緒になって遊ぶのは、たいていのことならば、どんなことでも楽しかった。
でも、だからといって、決して親の世界を持っていないわけじゃなく。
意識しなければならないことがあれば、すぐにそのことに意識を向けることは出来た。
子供と一緒になって遊んだからといって、子供の世界に親が引きずり込まれるなんて事は、ないんだよね。
きっと、一緒に遊べる親にとっちゃさ。
子供のことを受け入れようとか、子供のことを理解しようだとか、そんなことを考えているわけじゃなくって。
ただ単純に、自分の中に、子供と同じような一面があるのを見つけられているだけで。
だからこそ、子供と一緒になって遊ぶことを、楽しめるんじゃないのかと思う。
誰かがやって楽しいことは、他の人に取ったって、楽しいと感じられる面はあるはずで。
それを素直に、感じられているだけなんじゃないかなって。
それに対して、一緒になって遊べない人ってのは。
子供を未熟なものだと思っていて、その未熟なものが、自分の中にあることをよしとはしたくないんじゃないのかなって、そんな風に思う。
もうすでに大人と呼ばれる立場にあり、子供と同じ世界を持っていることは恥ずかしいことで。
周囲にいる、子供のいない大人たちとの世界の共有を崩したくなくて。
そんな風に、考えているんじゃないかと。
たしかに。
子供と一緒になって遊べば、泥だらけになることもあるし、人の目を引くこともあるし。
なにかと、大人同士の付き合いの中じゃ、起こりえないようなことばかりが起こる。
「いつも自分がいる世界」とは、ルールが違うのだから、当たり前といえば当たり前のことだけれど。
それでも、普段なら自分が「しなくなってしまった」様なことだからね。
出来なくても、おかしくはない。
でもどうだろう?
今は「しなくなってしまった」事ではあるけれど。
親にしても、自分が小さかったころには、自分でもしていたようなことを、単に子供がしているだけであって。
自分の世界になかったことをしているわけでは、ないはずなんだよね。
ただ、そこに戻るには、そうしなくなってしまった時間の分だけ、勇気がいるかもしれないけれど。
それは、ほんの少し、ほんのちょっぴりだけの勇気で。
その勇気さえ持ててしまえば、一緒になって、笑って遊べるかもしれない。
笑うのが嫌いな人は、ほとんどいない。
楽しいのが嫌いな人も、ほとんどいない。
子供が笑って楽しく遊んでくれるのが嫌いな親なんて、いないでしょう?
じゃあ、一緒になって遊べた方が、きっと、幸せだ。
辛いことにしたって、同じだよね。
苦しんでいるときに、同じ気持ちになって考えて上げられたら、どんなにいいだろう。
同じ気持ちになれないことが、その人の辛さを理解できないことにつながっているのだとしたら。
同じ気持ちになりさえすれば、きっと、何かしら力になれることが見つかるかもしれないのに。
思うにさ。
自分が喜べるようになるために、自分の世界の中に、相手を見つけること。
受け入れるってのは、きっと、そういう事なんだよね。
受け入れって言葉だけを聴くと、まるで相手のために行うような言葉に聞こえる。
事実、自分のために相手を受け入れるなんていう言い方をすることはそんなに聞いたことがない。
話しているその相手との信頼関係を築くために、受け入れを示さなければならないという事がほとんどだ。
でも、考えてみれば、受け入れようとしている側は受け入れたいからこそ受け入れる。
自分から受け入れようとするから、受け入れられるのであって。
「相手のため」になんて考えて、受け入れを示したところでさ。
そんなに簡単に人の気持ちを自分の中に発見することなんて出来ないのだし。
大人になってから「受け入れられる」ことを求めるのは、痛みを伴う。
「受け入れる」事においても、自分を相手のレベルに「落とさなければならず」抵抗がある。
だから、「受け入れる」事は、辛い。
でもそれは、「受け入れる」側が相手のためにと考えてしまったときのこと。
自分のなかに、誰かと同じような面を持っていることに気づくために。
自分の中に相手がいるんだと感じられるようになるために。
そのために「受け入れ」をしたいのであれば、きっとそういう面はなくなっていく。
自分の中に相手を感じて。
自分が一人なんだと思わなくてもすむようになるために必要なことで。
「受け入れる」事が受け入れる側にとって、うれしいことであって。
「受け入れられる」側が受け入れてもらおうとするのじゃなくて、「受け入れる」側が受け入れさせてほしいと望むようなもの。
そういうものだからこそ、受け入れは大切なんじゃないかと。
 
大きくなるにつれ、他の人は、自分とは違う考え方をするものなのだという事を、いやおうなく知らされる。
それで、人間は、自分は一人なのだという事を知る。
自分の思っていることは、誰も判ってくれないんじゃないかと思うと、ものすごい孤独感に襲われる。
自分が考えたことを誰も理解してくれないんじゃないのかと思うと、自分が生きている価値を見失いそうになる。
でも、一人だ、という事は、必ずしも自分の考えたことを誰も理解してくれないという事じゃない。
同じように考える人はどこかにいるし。
他の人が考えるようなことを自分も考えてきているものなのだ。
他のhとの考え方を受け入れるということは、自分の中にも他の人と同じものがあることを認めることだ。
そう、自分が考えることは、他の人が理解できるのだと、知ることでも在る。
受け入れってのは、そういうものじゃ、ないのかな?
今、そんな風に思う。
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