拠り所と、依存

誰もが皆「自分は大丈夫だ」「自分はおかしくない」と思うために、どこかに身を寄せる。

そして、その中にいれば心地良く、自分を卑下せずにすむから、たとえ周りから見れば滑稽でも、自身からはそれを否定しない。

その拠り所が、人によっては宗教であったり、お酒であったり、SM性癖であったりする。

でも、それらの拠り所を得ることは、何もおかしいことじゃないはずだ。

人はそれぞれに何かしらの特徴があり、全てが標準的な人なんて居ない。

だから、誰もがおかしく、誰もが大丈夫じゃない。

中には、全てが標準的な人もいるかも知れないが、それは全てが標準的という標準ではなし得ない事柄で。
やっぱりそれも、標準的じゃ無い。

結局、人は皆「変わっている」。

何かを強く信じることが得意な人も居れば、酒に酔いやすい人も居て、肉体的な快楽が人一倍強い人も居る。

それらの事は、傍から見ればおかしい事でも、その人達にとってはそれが普通だ。

それらがおかしく見えるのは、たまたまそれらの事をおかしいと見る人が、そういう特徴を持っていなかっただけだ。

逆に、それらをおかしいと感じることが、実はおかしい事なのかも知れない。

ただ。

それらの偏りを隠してしまったり、開き直ったりしてしまう人は多い。

隠しても、開き直っても、どちらでも自分のためにならないのに、そうしてしまう。

自分にとって良い方向を選択しようとすれば、おのずと隠すでも開き直るでも無い事ぐらいは解るのだけれど。

それでも、後先考えずに、人に決めてもらう道を選ぶ。

本当にそれで楽になれるのであれば、それでもいいかも知れないけれど。

でも、楽になれる事は少ないのだから。

自分がその先に辛くならないですむように。

そのために、自分が寄り掛かれる相手に打ち明けられるように。

隠してはいけないわけじゃないし、打ち明けてはいけないわけでもないと思う。

ただただ、隠す人に隠して、打ち明けられる人に打ち明けられれば、それが一番いい。

拠り所や依存と書けば、悪いようにしか見えないかも知れないけれど。

それでうまく行くなら、拠り所も依存も悪くない。

そして、悪くない拠り所や依存は、それを拠り所や依存だなんて、思わないですむだろうから。

そういうものを見つけられると、きっといい。

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